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February 01, 2006

美しいもの

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少し前、2号線沿いの福島近くにあるサイクルカフェ、アシェに行ったら
オーナーの女性のロードバイクがそれまでのコメンサルからかわって
いた。CASATIに少し前のカンパレコードで組んだもので、ホイールは
カンパのシャマルだった。とてもキレイな自転車だと思ったので、その
通り彼女に伝えた。

彼女は私のコッピはまだほめてくれるけども、スコットに対しては
「いい自転車なんだろうとは思うけど、所有する気にはならない」
とちょっとだけ手厳しいことを言う。確かにそうだなあとは思う。

自分にとって好きか嫌いかってなれば、どんな自転車(別に自転車に
限ったことではないけど、例えば女性でもいい)でも好きになれる(可愛い
と思える)けど、でもその対象が美しいと思えるかどうかっていうのは別の
話だろうと思う。スコットは愛車ではあるけど、これを美しいとは思わない。

(好きとか嫌いっていうのは個人の主観だろうけど、でも絶対的な美しさ
 ってものも存在しないんじゃないの、スコットを美しいって思える人が
 いてもそれはおかしいことじゃないんじゃない?)っていう意見もあるとは
思うし、それを否定することはしないけど、絶対的な美しさっていうものは
存在し得ると思う。例えば大自然の景色、砂漠の砂と風が作りだした優雅
な曲線は誰が見ても美しいものだと思うし、エロティックですらあると思う。
メイプルソープが女性の裸体と花弁などを並べていたりしたけど、その曲線、
丸みってものは人間にとって絶対的な美しさを持つんじゃないかなって思う。

ヨーロッパで生活していれば、古代からの建造物が残っていたりしていたり
して、それをいつも眺めていたら美しさってものに対する感覚っていうのは、
スクラップ&ビルトの国で生活しているのとは違ってくると思う。古代から
残っている建物なんていうのはその時代の支配者や宗教のトップがコスト
も何も気にすることなくひたすら美しさってものを求めて作らせたものだ。
だからこそ旧支配階級をギロチンにかけても建物はそのまま残したのだと
思う。日本においても宗教建築はとても美しいものが多い。そしてそれらは
どの国の人が見ても美しいと感じることだろう。美しいものを作ろう、という
意思の元に優秀な人間がそれを作り上げればその様式などはそれぞれの
国の文化の影響を大きく受けるけども、それはやはり美しいものになる。
モスク、教会、寺院、宮殿、城、それらはすべて美しい。

日本(米国)の工業デザインはイマイチだとかよく言われるし私もそう思う。
もちろん、違う文化のデザインはその目新しさの分良く思えてしまうっていう
部分はあるし、むやみに西洋崇拝してしまってもしょうがないけど、コスト
と性能がまず第一に要求され、しかもその要求がとても高いレベルだから
しょうがない部分もあるのだろうと思う。よく言われる例だけど日本のスーパー
カー、ホンダNSXに対してもゴルフバッグが詰めるトランク容量ってものが
求められたらしい、そんな制約の中では美しさを追求ることは難しいことだろう
と思う。

日本のデザイナーの中では川崎和男って人が好きなのだけど、彼は日本の
ようにデザインよりもまず機能が求められる社会の中ではデザイナーもメカ的な
部分を理解していないといけない、デザインのためのデザインはダメだ、として
いて、実際、機械的なことへも理解が深かったと記憶している。制約がある中で
美しいものを作ろうとしている部分がすごいなって思った。
そんな彼の連載をMacPowerという雑誌で読んでいたのだけど、今出ているPC
を見ていてもやはりマッキントッシュはキレイだなあって思うし日本のパソコンや
米国のパソコンなどは美しくないなあって思う。私のデルのデスクトップもそれなら
いっそただの四角いケースでいてくれればいいのに妙なところで「デザイン心」を
出していたりするのがとてもイヤだ。

そんなスコットやデルのパソコンなどに囲まれている生活が続いていけば、デザイン
とか美しさってものにあまり価値を見いだせなくなるんだろうなって思う。今の日本人
の生活全体がそんな感じだ。コスト意識と「で、そのデザインちゅうもんがなんの役に
たつもんなん?」的な発想、そして美しさってものを純粋に目指して作られたもの
(あるいは自然そのままの姿)がどこにもない生活、でもその日本的ライフスタイル
がうんだものが、キティちゃんだったり、キッチュでグロテスクな「カワイイ」とされる
ものであり、そしてそれが日本の文化として外国に受け入れられてもいるのだろう
とは思う(ブレードランナー的な風景、WASABI的なファッション)

日本での生活において、美しさを求めようと思っても、そもそも住んでる建物がコスト
意識の固まりみたいなものなわけで天井の低い「洋風部屋」に何をおいたところで
結果は知れている。そこで「和」の方向へ行くのもあまり好きではないし(今の政治
経済状況の先行き感の無さから、右よりの思想が力を持ってきているのと同じ構造
だと思う。)そのあたりは難しい問題だとは思うけど、でも10年前には書店にあれだけ
インテリア関係の本や雑誌は無かった。特に大学生のアパートでの一人暮らしに
おいてインテリアを考えるっていうのはフローリング指向といった形でくらいしか存在
しなかったと思う。でも、今、書店に行けば引っ越しシーズンの直前ということもあって
たくさんのインテリア本がある。美しさってものを洋服と顔だけでとらえていた時代から
自分が一番時間を過ごす部屋、家ってものにおいても考えるようになってきている。
こんな流れが50年、100年あるいはもっと続いていけば(いかないと)人の意識ってもの
はかわっていく(いかない)のだろうと思う。

母親は女性の権利とかを専門にやってきたのだけど
「私が言うてることは極端やってことはわかってる、でもこれまで続いてきた考え方、
 習慣っていうのはものすごい力を持ってるからそれを角度にして5度や10度違う
 方向へ向かわそうとしたところですぐもとに戻ってしまうんや、だからこそ45度
 あるいは90度くらいまで無理矢理にでも曲げてしまう、それでも元に戻ってしまう
 ことがほとんどだし、せいぜい1度とかそれくらいの変化しか望めない、私が生きて
 いる間に大きくかわるとは思えない。でも、女性の権利ってことで言えば、きちんと
 勉強していい学校で優秀な成績をおさめて、一生かけて自分のやりたい仕事を
 やりたいって考えている人が女性であるがゆえに、男性にくらべて大幅に制限を
 受ける、なんてことはどう考えても間違ってることだし、それをなんとかしたいと思う
 ならば、やっぱり動かないとあかんのや。」ってよく言っていた。

私が法学部に通っていた時は男女の比率は9:1くらいだった。司法試験の合格者の
比率もそれくらいだった。でもそれから15年がたって、資格といった受かってしまえば
性別による区別が少ない方面を目指す人の多い法学部では、多いところでは半分ずつ
にまでなっているらしいし、ロースクールでも65:35という割合らしい。たった15年くらいで
もこうやって社会は変化していく。

ファッションっていう分野ではオシャレな50代男性っていうのが出てきた。私が大学生の
頃には金かけてる50代はいても、オシャレなそれっていうのはあまりいなかったように
思える。マガジンハウスで育ったような男女がそれくらいの年齢になってきているの
だろう。今の10代が30歳になる頃には、爪にも気をつかい適切にピアスなどのアクセ
サリーを使った、今だったらトランスジェンダーなんて特殊な人扱いされているような
オシャレな大人が街にたくさん出てくるのだろうと思う。そしてそんな人達は工業製品
であれ、インテリアであれ、今の大人達よりもずっとデザインに評価の重きをおくのでは
ないかなって思う。

そうして世界は変化していくわけなのだけど、そんな中で自分にできること、やりたい
ことってなんなのだろうって思う。私の場合で言えば、その前にもっとちゃんと稼ぐ
ことが必要だし、インテリアの前に掃除だろう(すっごくきたない...)ってことはもの
すごくよくわかっているのだけどでも、そのことをいつも考えてしまう。スピリッツで
連載している「闇金、ウシジマ君」の中で借金まみれで友達だましたりしてなんとか
生きているブ男なゲイがボロボロになりながらも、夜空にあがった花火を見て涙を流して
「これからもこうやって美しいものだけ集めていこうね。」っていうシーンは何度読んでも
涙が出てしまう。

美しさの追求ってものを優先順位の何番目くらいに付けているのかっていう違い
も他人同士をわかりあえなくさせる一つの要因なのだろうなって思う。


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