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May 08, 2006

ローレンツ収縮の枠組

シルベストの日本海までのツーリングに参加してきた。一庫ダムから小浜往復
で220km、日吉ダムからで140kmとコースが別れていて(健脚さん達は自宅から
でOVER250km)、私は日吉ダムから小浜往復コースにした。折り返しのところで
膝が痛くなってきて、ついでにハンガーノックなんかにもなったりして、最後尾を
のんびり走っていたがいよいよ膝が痛くなってきたので、サポートで参加していた
野島さんの車に拾ってもらい残り20kmほどを快適に移動して日吉ダムに戻った。

今日も40人くらいの人が参加していた。シルベストの人、他のチームの人、いろ
んな人がいた。毎日十三峠を奈良側から超えて自転車通勤しているタカシマさん
も参加していたのだけど、走り出して最初の分岐で道を間違えて、しばらくして
気がついて急いで戻ったのだけど、そこから小浜まで60km単独で走ったとのこと
だった、ホント元気なおじさんだ。帰りの名田庄の道の駅で太平洋to日本海ツー
リングで走ってきていた回転木馬の人達とも会った。先月に淡路島の下りのカー
ブで大落車したサエキさんも新しい歯が入って、こころなしか以前より美人にな
っていた、楽しそうな笑顔だったからかもしれない、自転車は楽しい。
スタート(休憩地点)から、遅い人から適当にグループを作って出発していく。
最初はある程度の大きさの集団になっているが、小学生から60歳までいろんな
人がいて、自然に小さな集団に別れていく。集団についていけなくなってチギれて
もすぐに後ろから別のグループがやってくるから、そこに合流すればいい。

前半はけっこうがんばって私よりも速い人の集団について走った。追い風
だったこともあって最後の30kmほどはけっこうな速度で走っていた。
1人では走り続けることができない速度を集団を作ることによってキープし
続けていると、時間の感覚ってものが変化していくように感じる。仮に時速
35kmから40km/hに変化したところで、せいぜい10%ちょっとくらいの変化
なのだけどそれを大きく超えて(えっもうこんなに走ったの?)って思うことが
よくある。その感覚はとても気持ちいい、気分はもうアインシュタインだ。

スポーツをやっていて楽しいなって思うのは、自分の身体があたかも誰かに
あやつられているかのように動いてしまう時だと私は思っているのだけど
(今日の後半もそんな感じではあった、誰かに後ろから引っ張られている
 ような、というマイナス方向へだけど)そういう瞬間ってそうそうある
ものではない。並みくらいの運動能力の私の場合、テニスで数度、アメフトで
数回、自転車では多分、2年前に日本海を走った時くらいだ。川上哲治のボール
が止まって
..ではないけど、自分の打つボールのこれからの軌道が見える気が
して、そしてその通りにボールが飛んでいく。とてもついていける速度域では
無いのに勝手に脚が回り続けていく、心拍もそこまで上がりきってはいない。
なんだか軽く幽体離脱でもしているかのように、運動している自分を客観的に
見つめているような感覚。それを一回でも多く感じたくて運動をしている。

そんなことを昨日、彼女と電話で話していたのだけど、その感覚っていうのは
スポーツだけに限ったことではなく、他のいろんなことでも起こりうると思う
のだけど「会話」っていうジャンルでも起こりうることだ。2人が持っている知識
などを総動員して話を積み重ねて続けていくことによって出てくる何か、それは
例えば頭の中に漠然と存在していた概念が言語化されるってことでもあるだろう
し、ひらめきなんていうと大げさだけど、頭の中に全く無かったような発想などが
いきなり言葉となって出てくる時がある。電話を切る時になって、(なんであそこ
であんな言葉が出てきたんだろう。)なんて思ったりする。なので、長時間人と話
をしたりするのはとても好きなのだけど「会話=そんな何かの出待ち」みたいに
思ってしまっているせいなのだろう、雑談っていうのが苦手っていうかうまくでき
ないのが私の悩みだ。で、私のそういう苦手意識っていうのは会話に限ったこと
ではなく、他のことでも同じだろうという話になった。

「昔から公園などでの10mくらいの距離の女の子とのフリスビー、あるいは山なり
 のボールでのキャッチボールってものを否定してるけどそれもそういうことなん
 だろうね。スポーツでも会話でもトランス状態っていうか、神経を限界まで張り
 つめた状態の時にそういうのは起こるんだろうから山なりボールでのキャッチ
 ボールっていうのは、その観点からすれば無意味ってことになるわけだから。
 もちろん恋人同士でするキャッチボールってものには違った意味があるのはわか
 ってはいるんだろうけど、快感重視という観点からすればプライオリティとして
 低いものになるから、そこにわざわざ価値を見いだすことはしない。」

確かにそうなのだろう。神経をすごく集中している状態ってものがとても好きだ。
オカルト的なことは好きではないけど、奇跡なんてものが起こるとして、それが
時間経過の感覚の変化ってものの数十、数百倍以上のスケールで発生する
ものだとするならば、それは精神の集中ってところから生まれるんじゃないかって
思う。そんなことを思うから、自分自身がそういう状態であろうとしたり、他人が
そういう状態になっているのを見ているのも楽しい。
例えばスポーツであれば、プロの方が技術は高いのはわかっているのだけどア
マチュアの例えば大学選手権といった試合の方が(負けたくない)という意識が
ものすごく純化されていて、その思いが強すぎて結果的に勝つことから遠くなって
しまう場合もあるのだけど、でもそんな人達を見ているのは楽しい。プロでは絶対
に起こりえないような大逆転劇が起こるのは技術的、精神的に未熟だからという
ことからだけではないだろうと思う。

大好きな音楽のDVD、「DivasLive98」、マライア、アレサフランクリン、キャロル
キング、セリーヌディオンといった人達が、一夜限りの競演ということですごく
緊張しているのが見ていて伝わってくる。その緊張、集中感ってものがたまら
ない。クラシックの楽団やバンドの演奏などでも、その集中感ってものが伝わっ
てくる時がまれにあるし、その集中感ってものを皆が持つことによって起こって
いる小さな奇跡みたいなものが聞こえてくる音にあらわれているように思える。
譜面も読めないし楽曲の知識もないけど、その演者、集団の緊張感ってものを
感じたいためにコンサートなどにいったりする。

でも、極端な過度の集中はプロはプロであるがゆえに避けることだろう。自分の
才能の範囲内で仕事をこなすことが大事だ。スポーツであれば怪我をしない、
歌でもがんばりすぎて声をひっくりかえらすわけにはいかない。このあいだ劇団
四季のミュージカルを見たけど、これなんかはほんとプロの仕事だった。才能を
持ちよく練習をしたプロがその成果を披露している、面白かったとは思うのだけど、
その範囲内からどうやっても逸脱する気配すら見えないものであったことも確かで
他の人が動いたり演じたりするのを見ることを、自分ではなかなかできない集中
による快感、小さな奇跡、みたいなものの見ることによる疑似体験を求めること
だとするとなんだか物足りなかった。

こうやって日記を書くのも、集中してキーボードを叩き続けることによって、会話と
同じように自分の頭の中にぼんやりと存在したものが、言葉という形で目の前に
あらわれたりすることがあり、そのことが気持ちよくて、けっこうな長い量の文章
になったとしてもすごく楽しい作業になる。(奇跡ってものが存在するとしたら、
それはいったいどこから生まれるのか、偶然がごく短期間に集積しただけのこと
なのか..)なんてことを普段の生活の中で考えたりすることはまずないが、日記
という形でその日の出来事を書いていく中で、そんな普段は全く関係しないような
分野について考えたりするのはすごく楽しい。しかしそれを他人が読んでおもしろ
いかどうかってことは当然別のことにはなる、文章を書くことのひらめきの究極の
形は自動書記のようなものになるのだろうけど「永遠も半ばを過ぎて」ではない
けど、トランス状態になり、自分の頭の中に伝わってきた言葉を書き写す作業は
本人には最高の快楽かもしれないけど世界に残っているそんな作業の結果として
の文章はただ「文章がへたくそ」と片づけられていたりしたりするらしい。自分に
とって価値のあることが他の人にとっても同じであるわけはない。

体を動かすということでも、いくら本人にとっても快楽であっても気が狂ったかの
ような体の動きや、わめき散らすだけの歌は他人に対する快楽のおすそわけ
にはならない。スポーツや音楽というルールの枠内という制限を受けることに
なる。一定の枠内で、しかし極度の集中と共に自分自身の限界の枠内を超える
くらい大きく飛んだ時に生まれる何か、それを一つでもたくさん集めていきたい
なって思っている。今回の日本海では意識が(膝がいてえ~)の方に集中して
しまったけど、楽しい1日ではあった。ハンガーノックによる視覚の変化っていう
のも(視界の狭まり、色彩感覚の変化)、ちょっとした奇跡体験ではあった。
オウム関連の本を読んでいると、信者の多くが、ヨガを通じた修行による快楽の
すごさについて語っていたけど、それはきっとその通りなのだろうなと思う。
ただ現代の日本においてはルールの枠外ということになってしまう。
「持たざるものがドラッグやカルトと距離を置きながらの快楽の追求、パフィーじゃ
 ないけど、それが私の生きる道~。」ってご機嫌に彼女に電話機越しに話す私、
「雑談イヤ、馴れ合いイヤ..あなたってたまに会って時間を共有する関係、恋人と
 してはまだともかく、結婚、日常には向いていないよね~。」という言葉がかえ
ってきた。昔、全く同じ言葉を聞いたことがあって、それと同時にフラれたので
今回もかなりドキッとしたが、どうやらなんとか枠内に踏みとどまってはいるよう
だった、ホッとした。


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